純白な八重の山茶花が。。。2週間前から、
庭の西北の端に咲いています。
(↑、拡大します)
そして、
昨日、家内がこの山茶花を籠に活けました。
(↑、拡大します)
家内 「シモツケとユキヤナギも使ったの。」
シモツケの紅葉は、
半分くらい落ちていました。
軸は『無事是貴人』です。
意味は難しい感じですが、
この↓に参考に載せます。
家内 「アナタには少し難しいかな~。」
はい、先生。(汗)
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~無事是貴人(ぶじこれきにん)リサーチ~
『臨済録』にある有名な語です。
歳末が近づくと、どこの茶席にもこの語が掛かります。
この一年間、たいした災難にも遭遇することなく、
無事安泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わすと同時に、
師走といわれるほど忙しい年の瀬であっても、
決して足もとを乱すことなく、
無事に正月を迎えられるようにと祈って、この語を重用します。
しかし、
禅語としての「無事是れ貴人」の意は少々違います。
無事とは、平穏無事の無事でもなく、
また、何もせずにブラブラすることでもありません。
無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。
貴人とは「貴族」の貴ではなく、貴ぶべき人、
すなわち
仏であり、悟りであり、安心であり、道の完成を意味します。
私たちの心の奥底には、
生まれながらにして仏と寸分違わぬ純粋な人間性、
仏になる資質ともいうべき仏性というものがあります。
それを発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、
仏になることであり、悟りを得るということです。
私たちは、えてしてそれを外に求めてウロウロするのが現実です。
「求心歇む処、即ち無事」と、
臨済禅師は喝破します。
求める心があるうちは無事ではありません。
「放てば手に満てり」という言葉がありますが、
「求心歇む処」が無事であるのです。
その無事が、そのまま貴人です。
「但だ造作すること莫かれ、祇だ是れ平常なれ」と、
臨済禅師は無事を詳解します。
「面倒くさい」「むずかしい」の反対語に
「造作なく」という言葉があります。
当然のことを造作なく当然にやることが平常であり、
無事というわけです。
いかなる境界に置かれようとも、
見るがまま、聞くがまま、あるがままに、
すべてを造作なく処置して行くことができる人が、
「無事是れ貴人」というべきです。
今日の池ノ坊流の華道を創立した池坊専応は、
あるとき、
千利休の茶の師である武野紹鴎に依頼されて花を活けます。
あまりの見事さに感心した紹鴎は質します。
「あなたは、どんな心境でこの花をお活けになりましたか」
専応は答えます。
「いろいろの千草にまじる沢辺かな――という句を頭に描いて花を活けました」
沢辺に咲き乱れるさまざまの草花には、
美しく見せたいとか、
目立ちたいとかいうはからいは微塵もありません。
ただ、無心に一生懸命に咲いているだけです。
専応も花活けに向かって上手に活けようと意識するわけでもなく、
紹鴎を感心させようと小細工を弄するわけでもありません。
造作なく、すなおに、
「いろいろの千草にまじる沢辺かな」の句を想い描いて、
花を一本一本挿していっただけです。
専応もまた、無事底の一人であるのです。
『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より